197210月8日 ドイツ-フランクフルト着

 

 10日に東京を飛び立って、フランクフルトに降り立ってみるとまだ同じ8日。
空港内は連絡バスで移動する。


吊革に代わるパイプの位置がヤケに高くて癪に障る。
空港からは汽車で終着駅-Hauptbahnhofへ行く。


これは気分が良い!片道切符が1.4DM

 

 列車に乗ってから気が付いた大失敗: 空港で地図を手に入れてCarlton 
Hotel
はどの辺か、駅からどうやって行けば良いか、
最初の訪問先Hoechst社は?…しっかり聞いてから空港を出るべきだった!

 

 最初の研究所訪問は明日からなので、市内を少しは見物する。


教会の庭の茂みから野兎が飛び出したのには驚いた。


ガラス窓の中の賑やかな美女達の前は恐る恐る通り抜けた。


植物園と新都市センターは残念ながら見落とし、
ヨーロッパの第一日はフランクフルトに着いただけで終わってしまった。

 

 写真も撮った筈が、その最初の一本を紛失してしまって残念!




さすがLufthansa、空港にはこんな洒落た地図が置いてあったのだ。

 

 



109日(月) ヘキスト社 染色研究所へ

 

朝からフランクフルト観光協会を訪ねてまず乗り物の系統図を手に入れ、それから

1) Hoechst社の中央化学研究所の場所と往き方を教えられた上に、
東口の建物A20Planning Group Dr.FALCKEMr.GRUNEIS
11:30に訪ねなさいよというご指示。
2)次の訪問先、ハイデルベルグ大学のFrau Brechtさんに連絡を取って頂き、
3)更にBad Godsbergの在独日本大使館に電話して、
もう一つの訪問先、Constanz大学の連絡先も教えて頂く。

 

早速市電に乗ってヘキスト社を目指す。


この市電は乗って1時間のうちなら80ペニーで何回でも乗り換えることが出来る。


GoetheHuskenMusseumの切符が1.5DM、どうやら寄り道をしたようだ。

 

おや、どこかで見たような建物、と思ったら、
これがペーター・ベーレンス設計の本館とタワー。


ここはヘキスト社の発祥の地、マイン川の両岸にまたがる広大な敷地を持ち、
連橋もH社が架けたものだそうな。


構内では皆さん、「Guten Tag!」と親しげに握手を交わしている。

 

ヘキスト社本館(奥)とタワー(右)    建設部長 Dr.Ing.F.K.FALKE




お目にかかったのは:


Mr.KREHER
Reader of Planning Group


Dr-Ing.F.K.FALKE (Bauingenieur)

DIPL.-Ing.OSCAR GRUŪNEIS (Bauingenieur)

                                      

早速実験棟の設計についてスケッチ入りで説明が始まる。実物の撮影は不可!



* 実験棟の工事費:400DM/立方米(実験器具を含む)、10年間に倍増した。  


* 階高4.25米 エアコンなし。(管理部門はエアコンあり)
 地下/半地下も一般階と同じ又はより高く、
配管階としてまた、工作・ロッカー・シャワーなどに利用。

* 平面計画は単純で2スパン毎に大梁・小梁・床を取り外して大空間とする用意がある。

* 床はH形鋼の上部・下部を使い分けて実験室ユニットごとに床下配管が可能。





* H社の実験棟の基準は、日本のJISに相当するDINDoitsche Industrie Normenにも取り入れられ、
DINの部門別委員会にはHoechst からも参加している。

* 用意してきた質問の一つ、公害問題について聴いて見たが反応は全く鈍い。
染料工場の建設部とあれば無理もないかと打ち切った。眼で見たマイン川は真っ黒と言う感じ。

* 更に、MarburgBochumの大学の工事費の話で、
数字にはとても付いていけないが、彼らはカンカン諤々。




『君の見学すべき大学はこの二つだよ』と言って呉れるが今更どうにも、、。
以上で、化学系実験棟の話はお終い。


実験棟の撮影は禁止につき、、ベーレンス設計の本館棟、タワーの部分を撮影。

左は吹き抜けの下層部、  右が天井のトップライトまで見上げた図、


フロアごとにデザインを変え、煉瓦の表面を鮮やかに彩色してるが、聞けばペイントだとの事。
銀座ライオンはここの影響かと思っていたらヘキストの方が後だった。

べーレンスは晩年になる程こうした彩色煉瓦に強く惹かれて行ったそうな。

 

最後にYouTubeJahrhunderthalle Frankfurtで最近見つけるまで
その存在すら知らなかった(世紀記念ホール)について、Dr,FALCKE氏の熱弁を聴く。:


設計コンペの当選者が最後まで頑張り続けて、当初11億の予算が最終40数億にもなってしまった。


落成式で主催者の挨拶:「大変立派な建物が出来た、出来ればもう少し安く・・・。」


次の人の挨拶:「コストが安かったらもっと・・・」


次の人:「コストが問題が!」


再び設計者の○○教授:「この仕事のためにどれほど悩んだか、
飲んだヘキストの安定剤も分量にしたら一立方米にもなるでしょう。

随分お金がかかったことになります。それと比べてこの建物のコストは随分安いと思います。」



 

この件に関連してDr.FALCKE 氏からのプレゼント

 

フランクフルト世紀記念ホールは、1972年には既に竣工していたのだ。
これを見ていると、どうやら
Dr. Falke氏ご自身、このプロジェクトの当事者であったらしく、
この
6段階を経験され、あるいはその幾つかの段階に
未だ浸っておられた可能性もなしとしないような気がしてくる


 

1010日 フランクフルトからハイデルベルクへ汽車の旅






 

1010日(火)ハイデルベルグ大学

 

フランクフルト発8:04-ハイデルベルグ着9:20とは結構頑張ったものだが、
駅から新ハイデルベルグ大学までどうやって行くのか分かってる訳ではない。


列車内の売店で炭酸抜きの普通の水を買うのに苦労した。

Without 何々』とかやって通じる筈もなく、若者の助け舟「Non Gas!」でOK

 

何とか辿り着いた新大学管理事務所では大勢の人に挨拶。


新聞記者も詰めかけてどれが誰やら分からなくなったが、主要人物は下記の通り。
(順序が逆になったが、どこも同じで実際会いたい人に会うには時間がかかる。)

 

Mr.BehrensUniversitats Verwactung Heidelberg (事務局の係長さん)
Miss Fraulein Von WinterFeldt (同上セクレタリ、Sex moralについて研究中!)
Mr. Ridere Archtect、大学プランニング・グループ、元祖はRFITTER最古のホテル
Mr. E. SUMERUniversitats Bauamt Heidelberg、州政府の文部省に所属する建築家、

   「上級学校の建築は州(Land)がやる、標準はKarlsruhe でまとめている」との事。
  



早速工事現場へ。 



州政府の建築家 Mr. Sumer氏と、大学プランニンググループの
Mr. Ridere 氏、
それに秘書のMiss Winterfeldtも鉄兜を被って付き合ってくれる。

 

プレキャストの鉄筋コンクリート柱・梁を組み立てている現場を見せてもらったが、

ホゾ(接合部)に何か緩衝を兼ねたジョイント固定材を使っている。 素材を意味する

言葉が分からず、苦労した結論は「lead/鉛」と言う事になってしまった。

どうも納得いかない。



次にご覧いただく写真は、Miss Winterfeldtさんが後から送ってくれた、翌11日の新聞の切り抜き。

Kodama, Miss Winterfeld, Mr.Behrens    奥よりMr.SUMER, Mr.Ridere, Kodama


エネルギーセンター、今日竣工したばかり

がんセンター、マジックハンド
こちらも数日前に竣工したばかり




新キャンパスの建設は1915年に始まり、
植物実験棟(フィトトロン)、化学実験棟(1950年?)を経て、


メディカルサイエンス群の完成まで1年を予定というゆっくりしたペース。

 
新エネルギーセンターは、この日まさに動き出した所、
旧エネセンは壊されて新計画の用地になっていく。

模型は5年前の計画らしく、標準図を含めてHeidelberg大学だけの部分もあれば、
他のInstituteを同一の設計でやろうとしている部分もある。


要するに新ハイデルベルク大学の建設は現地の仕事ではなく、
Karlsruheの州政府建設部の仕事であり、
Mr.SUMER氏はハイデルベルクを担当してここに常駐しているとのこと。





夕暮れになりましたがAlt Heidelberg の眺めをを何枚かご覧ください。






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