ロワール川越しにオルレアン大聖堂をみる
17日(火)私はジュネーヴからのフライトに乗り遅れたらしい。 それまで持ち歩いてい
た旅行鞄を、アルプス登山には邪魔だろうと、チューリヒ駅を出発するとき、Geneve空港駅
までのチッキにしておいたそのCheck が見つからないのさ。 周遊券のタブだのホテルのレシ
ートだの、鞄の中身だの、散々苦労して結局は認めてもらったのだが、日本大使館 表敬には
間にあわず。
ランス見学には付き合ってやろうと、ホテルで待って呉れていた。 パリ大学の事務局が我々
のスケジュール作成に協力してくれ、最初の見学は18日10:00オルレアン大学からという事で
大いに楽しみにしていたのだが、他のグループとダブって仕舞って調整が付かず、結局午前中
はオルレアンの街を見物することに、それもまた楽しみ。
ジャンヌ・ダルクの銅像 通りの奥に大聖堂が
Cathedral Sainte-Croix d‛Orleans Cathedral内部 どんな場面か?
Mairie d'Orléans(オルレアン市公館) 仲良しの 中学生
お会いした方々: Mr. Le FEUVRE オルレアン研究所群の Administrateur.
Mr. Roger DOUCIN 機械系エンジニア
右端に飯山氏、左端がFEUVRE氏のようだ。
国立科学技術センター(C.N.R.S.)の組織について:
文部省の下、各地に各分野の科学研究所があり、夫々を専門の研究者である研究所長
(Scientific Directeur)が、研究者とテクニシャン(技術者)を指揮下に置く一方、
事務系では同じ所長格のAdministration Directeuer が任命されて、研究所群事務所長として
複数の研究所の事務員を統括する。(Mr. Le FEUVRE もその一人)
規模など:
1972年現在、総数は400人、1980年には研究者400人、技術者+管理者600人を目標とする。
敷地:850,000平方米、建物:15,000平方米、いずれも将来計画の4/10。
地価:オルレアン中心部は100フラン/平方米、ここは1フラン/平方米(市から国へ)。
施設整備費(建物+実験設備):1,000フラン/平方米(設計料3%含む)
施設整備の流れ:
1.CNRS本部に所属するScientifique directeur general、GRECO氏(アーキテクト)が、建設 の必要度を決める。
2.パリのアーキテクトO.C. CACOUB氏 (ローマ大賞受賞者)が文部省の依頼をうけ、審美 的な立場から評価する。
3.オルレアン新都市計画に携わったARRETSCHE氏(O市に所属)が、都市計画の観点から 審査する。
4.CNRSのGRECO氏が今回の4つの建物それぞれに4人の建築家を選ぶ。施工者はコンクリ ートから左官に至るまで建築家が推薦し、CNRSが決める。
排水その他の問題について:
排水: 1.放流、2.脱酸(石灰岩の砕石層を通す 3.し尿、 2.3は処理場へ。
ドラフトチャンバーの 給排気: 直接。(パリから離れる理由の一つだ)
固体のごみ: 紙類→焼却炉 ビン→埋める
重金属・用材・油:瓶に集める→ ①外部会社に依頼、②古い石切場で燃やす(不可だが)
オルレアン大学と共に、市の中心から離れて広々としたキャンパス群だ。
新築の棟間隔も悠々として羨ましい。
当時のフランスの近代建築は、外回りは軽快でガラスと鋼板が目立ち、躯体も鉄筋コンクリ
ートか鉄骨か分からない程、工法の合理化・工場生産化を追求する結果か、悪く言えばどこへ
行っても似たような建築ばかりという印象は否めない。
10月19日(木) 文部省高等教育施設部 (表敬訪問)
お会いした主な方々:
Mr. Paul SENNAC 高等教育施設部のチーフ・エンジニア、60歳くらいの方。
Mr. Rene SAND 学校専門の建築家 D.P.L.G、70歳に近い方。『昔 Mr.ナカムラに
会ったよ』と懐かしがっておられた。中村順平氏のことかと思われる Mrs. Santa Maria BUARQUE 建築家、Pedro Ⅱ college 教授、
(ブラジルからの同時 訪問者)
話題: 筑波研究学園都市について、当方からご説明,
教育施設の建設について、
公害対策について: 「フランスでは、今UNIでは何もやっていない」
「アカデミー」 なる組織について、(1年生を補助して、決断・計画・選択
設計料について: 「Architect 4%, Engineer 2%、年内に変わるよ」
子供の教育費について: 小学校(~11歳)、 700,000,000 FRF
C.N.L.S. Physiolosique Pluricellulaire de Gif Sur Yvette
お会いした主な方々:
Mr. Hiroshi HARADA Directeur、Laboratoire de Physiolosique Pluricellulaire.
Mr. MORVAN Directeur Administraire(複数の研究所を管理) 土木技術者
Mr. 稲垣 新 遺伝学専攻 C.n.r.s 客員の研究者か
Mr, 平山平八郎 日本国際教育協会(文部省科学官)、環境調節の大家、視察か
Mr. 森 寛一 東京農工大教授 筑波に新設の研究所建設委員 訪問者
ジフシルイヴェットといえば当時ベトナム戦争が終わりに近づき、ジフの迎賓館で米越パリ
会談の真っ最中、翌1973年1月の和平協定調印もここでなされたという歴史的建築物なのだ。
C.n.r.s ジフシルイヴェットの迎賓館入口 Mr.Harada Directeur Scentifique
それどころか、原田Directeur Scientific のお話によれば、このC.r.n.s Gifは『国立科
学研究本部」、あるいは『科学研究庁』と呼ぶべき規模の大研究機関であり、ここで育った
7,000人の研究者達はそれぞれ、
1、 C.n,r,s. に所属して、
2、 C.n.r.s. から各地の大学や研究所に派遣されて、
3、 C.n,r,s. に所属しながら、パスツール研究所など民間の研究機関へも出向する など、様々な形で世界的な活躍を見せているとの事。
また資産家からの寄附も多く、そこから生じた成果として:
多細胞生理研究の進展(細胞膜を取り払って融合させる)、
Callus(分化していない植物細胞塊)を創る、
花粉を一粒ずつ分離して直接取り出す(一挙にX倍になる)、
フィトトロン施設の進歩発展(特に植物の開花生理・日長反応の研究)、
光合成の実験装置(分化するときのDNA・RNAの変化、葉緑体を取り出して培養する、 等々多くの面で多大の貢献をされている、、、とのこと。
訳もわからずに聞き慣れぬ用語を誤りも苦にせず書き並べててみたが、研究内容の難しさを
想像する手掛かりにでもなれば幸いとしよう。
後は実験室の中身をご覧ください。
実験装置を調整する原田所長 一室に何台か函型のフィトトロン 複数装置の操作盤
人気の的は新型のフィトトロン
左のガラス屋根の写真;
右上の切妻は古くからの温室タイプ、左上のやや複雑な形をした棟の内側に新型のフィトトロ
ンが据えられていると思われる。 右の写真は:
トロンのような人工環境でしかもそれを厳密に管理することによる実験・研究を行う種類の研
究所では、実験室本体よりも重要な役割を果たすのが、実験装置や室内環境を支える機械室。
フィトトロンの場合、実験室の2倍以上の面積、高さを考慮すると3倍くらいの補助スペー
スが必要かと思われる。
水処理、廃棄物処理などの問題について
4年前までは所内に汚水処理装置を持っていたが、6か月前に出来上がったパリ地区全体を受
け持つ国の施設(環境省が監督する会社)に任せている。
c.n.r.s. は、会社が河川から汲み上げる多量の水を常時2,000立米ストックしている。排水
のPhは7、重金属は殆どゼロ、BOD・CODも問題なし。 排水は流下の途中が地下で滝になっ
ており、ここで有害なガスは散逸するとの事。
ドラフトの排気はフィルターを通さず、直接廃棄する。
固形物については、焼却炉があるが近い将来、市の焼却工場に委託する予定。
施設の建設、設計について
敷地は85 ha、内(水処理会社が寄付したとされる)65 haを公園にしている。
実面積20 haに12研究所、職員1200人の半数が研究員、技術補助者が500人、事務系100人。
施設の規模について:
Scientist達から希望を集め、管理部長のMr. MORVANからC.n.r.s本部へ提出、了承されれば
各研究員からの要求を集めて間取りを決める。 最終的には本部所属の建築家がチェックして
決定する。
10月20日(金)、土木建築中央試験研究所 c.e.b.t.p
(Centre Experimental de recherches et d'etudes du Batiment
正直言ってこの週のフランス各施設訪問は手違いの連続、この日も交渉先のC.E.B.T.P本部
からは断られていたのだが、C.N.R.S原田所長の親切な御口添えと御案内までして頂いて、サ
ン・レミの方にある建築試験所にお邪魔することが出来た。
サンレミの土木建築試験研究所 実にゆったり、ゴルフも出来るよとか
C.e.b.t.p. サンレミ 正面玄関 散々お世話になった 原田多細胞研所長(右)
1階搬入口は2層分吹き抜け
を組み立て中だった。平面的には少なくとも縦横2スパン、クレーンの高さは4階の床下
という感じだ。
左写真:1階床には規則的に引抜き対力要のアンカーホールが、右写真:走行クレーンの上
の床には吊下げ用のアンカーホールが設けられている。
1000t/集中との事。
10月21日(土)パリ大学 第10学部(ナンテール分校)
お会いした方々: (議論好きな面白い人たちだった)
Mr. Adam de VILLIER Jaques Directeur de Service Technique
Ecole Traveux Publique(ETP)卒 1912生
Mr. Gilbert DUTORDOIR Ingenieur Ponts et Chausses
ナンテール の 校地:300,000平方米30ha、建物12,000平方米
ナンテール分校としては1964年スタート、1967年のストライキ、70年に再開してやっ
とPatio(中庭)が出来たようなものだ。
1972年当時、 図書館: 22,500㎡、
学部 LETTRE: 30,000㎡、
DROIT :27,000㎡、
Restaurant: 5,000 ㎡、
Residences: 26,500㎡。
環境としては、市内/郊外/その両者を結ぶ3系統に分かれた鉄道会社の、時節に会わな
い無理競争が、ナンテールにとって最大の悩みあり続けるだろう。 サン・ジェルマンか
らナンテールを結ぶのにどれほどかかったことか! CNCF(国有鉄道)はAuberから1972
年10月に初めて構内のレストランまで路線を延ばすことに成功したが、その先は無理で
はないか?
地中はGruyereチーズと同じで既に、METRO・RER・Electrisity・Water・Dranage で一
杯、地表に近い部分は厚さ1米未満しか残されていない。 ナンテールでの給排水・電力
・ガス・通信は、RERによって分断された結果すべて2系統に分けざるを得ないだろう。
(註) (Réseau express régional d'Île-de-France:、イル・ド・フランス地域圏急行鉄道網)
私の頭には、女子学生たちが一生懸命柔道に励んでいた光景が思い浮かぶ、空手
か? いや柔道? その後のTV番組ととごっちゃになって来る。
最後に、1972年当時のナンテール配置計画と、2020年現在の航空写真を並べてみる。
Rail Way に取り込まれて動きの取れないナンテール分校、という感じは否めない。
1972年当時のナンテール配置計画
現代の航空写真から見たナンテール大学
明日22日(日)は旅行日で パリからロンドンへ、そこから先はBritish Councilだけ
が頼りで私はまだ何も知らされていない。
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