幸松 Report   #14   from U.S.A.

 

LA レポート#14: 2度目の独立記念日は...

今年の独立記念日は、まず家族揃っての5Kmマラソンから始まりました。家からほど近いRedondo Beachという所で行われた大会に参加しました。確か参加費用は一人$24でTシャツ等をお土産にもらいました。

国歌斉唱で盛り上がり、10Kmの組に引き続き、我が5Km組も8時15分にスタートです。皆本当に楽しんでいるようです。仮装して走っている若者もいました。我が家と言えば、家内と長男は、やる気満々、私は予測が付かない次男の伴走を努めることになっていました。 実は日頃運動不足でもあり、このレースの為に久しぶりにジョギングシューズを新調した家内が一番心配ではありました。肉離れでも起こすのじゃないかと。

そんな心配をよそに、燃える二人組は颯爽とスタート、次男も負けじと後に続きます。幸松は小さな次男を人込みで見失わないよう、後から付いて行きます。人込みがほぐれた頃、当然二人からはかなり引き離された時点で、予想通り次男のペースが極端に落ちました。そうこうしている内に、次男が「お腹が痛い」と言い出し、虚しく幸松、次男組はウォーキング組へと格下げとなりました。

折り返し地点から戻って来る二人に声援を送りながら、とうちゃんと次男はのんびりと散歩を楽しみました。結局1Kmくらいしか走っていないかな。まあ来年、また頑張りましょう。ゴールには水やフルーツがふんだんに用意してあり、お腹が痛いと言っていた次男も、オレンジ、プラム、バナナをたくさん頬張っておりました。まあ、よしとしましょう。

長男は結構早かった様ですが、家内は間違って10Kmにゴールインしてしまったこともあり、どうも結果は闇に葬られてしまいました。来年は是非5Kmにゴールして下さい。まあ、怪我が無くて良かったです。

家に帰った後、今度はお向かいのご夫婦の別荘におよばれで、約6時間のドライブを楽しみました。場所はMammoth Lakeという所で、冬はスキーやスノーボードが盛んな所です。有名なヨセミテ国立公園の少し南東にあたります。

ずっと砂漠の中をドライブし、時には気温40℃を超える中でのドライブだったのですが、行き着いた先はまるで軽井沢の様な別荘地でした。標高も結構高かったです。ドライブはSierra Nevadaという山脈沿いに走るコースで、暑くはありましたが、大変眺めの良いドライブでした。アラスカのマッキンリーを除くとアメリカ合衆国の中で一番高い山、Mt.Whitney (標高4,418)も眺められました。本当はどれがWhitneyだか分からなかったのですが。

実は思いがけず、帰り道で太平洋戦争当時の日系人強制収容所跡(Manzanarという所)に行くことができました。お向かいの別荘に置いてあったガイドブックで「慰霊碑」の写真を目にし、どうしても行きたくなってしまったのです。

その強制収容所はSierra Nevada山脈の麓にありました。周りは殆ど砂漠で、7月6日でしたが、大変暑かったです。40℃はあったと思います。当時の建物は殆ど残っておらず、跡地にそれぞれ看板が立っていました。農場、病院、宿舎、そして野球場跡などもありました。真っ白な慰霊碑の脇には幾つかお墓があり、大変感慨深いものがありました。

日本からの移住者だけでなく、二世、三世の生まれながらの日系アメリカ人も有無を言わさず収容されたとあります。収容所自体どのような環境であったかは知る良しもありませんが、日系人というだけで、正々堂々のアメリカ人が鉄条網で囲まれた限られた土地で暮らす不自由と屈辱はいかばかりであったかと思いやられました。

現地でもらったガイドには以下記述がありました。以下、簡単に訳します。

1942年の2月、ルーズベルト大統領は、大統領令9066にサインした。これにより、アメリカ西海岸に居住する約12万人の日系アメリカ人が強制収容所に収容されることが正当化された。収容所は全米で10個所あったが、Manzanarには11,061人の日系人(おそらく3分の2はアメリカ市民)が老若男女を問わず、1942年から1945年の間収容されることとなった。彼らは一人当たりスーツケース2個分の手持ち荷物しか搬入を許されなかった。

居住区は鉄条網で囲まれた500エーカーのエリアで、36ブロックの木造バラックが建てられていた。その周囲には、畑、養豚場、貯水池、汚水処理場等があった。

ご興味のある方は以下をトライしてみてください。

www.nps.gov/manz

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